タカサキの「結局プロレスが好きっ!」

富山県氷見市の接骨&指圧鍼灸院院長の趣味ブログです。 ご意見はtakasaki@p1.cnh.ne.jpまでどうぞ

カテゴリ: 全日本(1970年代)

全日本プロレスが開催した世界オープン選手権

12月15日、宮城県スポーツセンターに於いて

D・L・ジョナサン 対 A・ブッチャー

の公式戦が行われました。

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相手がブッチャーとはいえ、余裕の表情の「人間台風」ジョナサン

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しかし、試合前に背を向けた隙をブッチャーは逃さず

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奇襲攻撃をかけます。


早々に場外へと誘いますが

しかし2M近い「モルモンの暗殺者」は、逆に机を軽々と持ち上げて

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ブッチャーの脳天に叩きつけ

頭部をかち割りました。

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リングに戻り、パンチから

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ドロップキック

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ボディ・スラム

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そしてとどめのサンセットフリップを狙いますが

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これを辛うじて交わしたブッチャーは

11日


得意の毒針エルボーを決め

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カウント3を奪ったのです。

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3分9秒、ブッチャーが電光石火の勝利


まるで猪木対ハンセンを見てるかのようで

試合後もジョナサンがブッチャーを襲い

試合に秒殺負けして、勝負に圧勝した印象でした。

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私はリアルタイルで観てませんが

オープン選手権の中で、数ある夢の対決のうち

この試合こそが、最高のカードだったと

私は思いますね

1977年12月15日、蔵前国技館

全日プロが開催した「世界オープンタッグ選手権」の(事実上の)優勝戦に於ける

あの伝説の抗争から2年後

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1979年12月13日、蔵前国技館で行われた

「79世界最強タッグ決定リーグ戦」の(事実上)の優勝戦で

再びⅮ・F・ジュニア、T・ファンク 対 A・ブッチャー、ザ・シークの

一戦が行われました。

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この試合でもブッチャーはやはりフォークを多用


テリーにスピニング・トー・ホールドをかけられても

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グサリと刺し

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今度はシークがドリーを羽交い絞めにした時も

フォークを出して、ドリーに襲い掛かります。

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しかしこれをドリーがよけ、何とシークに誤爆

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この好機を逃さず、ドリーがシークを捕らえ

17分15秒、フォール勝ち!

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ファンクスがオープンタッグに続いて、2度めの優勝を果たすとともに

血の抗争に決着を付けたのであります。


この同士討ち後、怒ったシークはブッチャーに火炎攻撃を放ち

壮絶な仲間割れを起こし、以後は両者の抗争へと発展していきました。

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そういう訳で、個人的には

反則決着であったオープンタッグの試合よりも

形的にはきちんと決着を付けたこの試合の方が

好きなのですが・・・

あまりに最初のフォーク攻撃のインパクトが強すぎたのか

2年前を超えるインパクトを残せなかったですね。

昭和49年7月27日、両国日大講堂に於いて

「覆面世界一決定戦」と称し

ザ・デストロイヤー 対 M・マスカラス

の一戦(60分3本勝負)が行われました。

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前年10月のUSヘビー級戦で、マスカラスを下し

気持ち的に余裕があるデストロイヤーは

冷静に試合を進め

トップロープからのニードロップで

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1本目を先取します。

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しかし、後がないマスカラスも

決死のダイビング・ボディ・アタックで

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タイに持ち込みました。

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そして、喜劇…

いや悲劇が3本目に起こります。


ロープの反動で戻ってきたデストを

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マスカラスがジャンプで超えようとした時

なんと、タイミングがずれ

デストの頭がマスカラスの股間を直撃したのでした。

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あまりの痛みにマスカラスが悶絶

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これを見たデストが

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「マスカラスのタイツのヒモを緩め、風を入れてあげる」

という、お笑い…いや、感動シーンが生まれたのです。

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こうして、3本目は

マスカラスの試合放棄という形で終了


もしプロレスに「ブ〇ク」とか、「アン〇ル」とかが存在するなら

よくマスカラスはこのような提案を

了承しましたね。


いやっ、きっとこれは本当のアクシデントだったはずです。


プライド高い(と言われる)「仮面貴族」マスカラスが

こんな恥ずかしい結末を納得するわけないでしょうから

日プロ新人時代、A猪木と共に

「若手三羽烏」と呼ばれていた

G馬場と大木金太郎


同じ釜の飯を食っていた2人が

1975年10月30日、蔵前国技館に於いて

一騎打ちを行いました。

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今や「全日プロのエース」G馬場

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そして、「韓国の英雄」大木金太郎

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どちらも負けるわけには言いません。


209センチの馬場に対して

大木は、さらに低い体勢で構え

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馬場のボディに得意のヘッドバッドを連打

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痛さのあまり、馬場が身をかがめると

今度は正面から一本足頭突きを食わらしました。

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これも連発により馬場は場外へ転落

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そして、石頭を何発も叩きつけられた馬場の額は流血

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大木はリング内で「どうだ!」と言わんばかりの表情です。

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しかしこれで馬場もスイッチが入りました。


リングに戻って、大木の眼前で気合を入れるや

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十八番のランニングネックブリーカーを完璧に決め

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この一発で大木を仕留めたのです。

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時間にして、僅か6分49秒の出来事でした。

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このタイムは、前年の猪木対大木の試合の約半分の短さであり

しかも、半年前の4月4日

猪木に1分16秒でリンガアウト勝ちをしている大木を破ったのですから

「やはり馬場は猪木より強い!」

と思わせる結果となりました。


実際、そう思ったファンがいたかどうかはわかりませんが

きっと猪木は悔しかったことでしょう。


6年後の1981年、春に馬場がリンガアウトでしか勝てなかった

大木の元相棒K・ドクことT戸口を引き抜いて、戦い

ほぼワンサイドで完勝し、第三者を介し

一応のリベンジを果たしたのです。


でも、ないか。。。


一応、参考的な試合結果を申します。
◇1974年10月10日、蔵前国技館
NWF世界ヘビー級選手権、無制限1本勝負
〇A猪木(13分13秒、体固め)大木金太郎●

◇1975年4月4日、蔵前国技館
第2回ワールド・リーグ公式戦30分1本勝負
◯大木金太郎(1分16秒、リングアウト)A猪木●

◇1975年10月30日、蔵前国技館
無制限1本勝負
◯G馬場(6分49秒、体固め)大木金太郎●

◇1981年4月21日、燕市民体育館
第9回チャンピオン・カーニバル公式戦30分1本勝負
〇G馬場(7分28秒、リングアウト)T戸口●

◇1981年9月23日、田園コロシアム
IWGPアジアゾーン・予選リーグ戦30分1本勝負
〇A猪木(9分20秒、グランド卍固め)T戸口●

昭和53年6月1日、秋田県立体育館に於いて

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PWFヘビー級選手権試合

<王者>G馬場 対 <挑戦者>K・T・カマタ

の一戦が行われました。

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今回の相手のカマタは

国際プロから移籍して、まだ1週間も経っておらず

ほぼ初顔合わせの相手でありますが

これまで38人の挑戦を下している

初代PWF王者の馬場


少し余裕な表情も見受けられます。

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しかし王座奪取を企むカマタは

喉へのクロー、顔面かきむしり、額への噛み付き

と5カウントスレスレで反則技を連発し

馬場のダメージを奪いました。

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更にトラースキックから

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トップロープに上り

急降下ニードロップを浴びせたのです。

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ここまで好き放題され

ついに馬場の堪忍袋の緒が切れました。


鉄柱攻撃でカマタを額をぶち当てた後

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放送用コードでカマタの首を絞めあげたのであります。

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もう冷静をすっかり失っていた馬場は

更に制止するレフェリーを突き飛ばしてしまい

これにより16分16秒、反則を取られました。

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馬場は39度目の防衛に失敗

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カマタが2代目王者に輝いたのです。

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C・カーニバルでは

伏兵相手の取りこぼしは毎回はありましたが

流石にタイトルマッチで

格下的相手に対するいきなりの敗退は

当時の馬場ファンも驚いた事でしょう。


しかもこの後、すんなり奪還ではなく

カマタ→ロビンソン→ブッチャーと経由してから

9ヶ月経って翌年2月、シカゴでの奪還ですから

結構まどろっこしかったですね。

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