タカサキの「結局プロレスが好きっ!」

富山県氷見市の接骨&指圧鍼灸院院長の趣味ブログです。 ご意見はtakasaki@p1.cnh.ne.jpまでどうぞ

カテゴリ: 新日本(1980年)

1977年にデビューし、キャリア3年ながら

MSGでトップヒールとなった「超人」H・ホーガン

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昭和55年(1980年)の第3回MSGシリーズに

特別参加として、初来日し

5月30日の高松市民文化センターでは

「MSGの帝王」B・バックランドと特別試合を行いました。

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実は地元MSGでもまた未対決ということで

非常に注目されましたが

出足はバックランドがWWF王者らしく

ホーガンを翻弄し

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ドロップキックや回転足首折り固めで

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試合のペースを握ります。


しかし、ホーガンも超人パワーを見せつけ

ショルダー・ブロック、デッドリー・ドロップで反撃

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更にはバックランドの首をへし折らんばかりに

スリーパーで捻じ曲げました。

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試合は意外に長引き、15分以上の大熱戦となります。


バックランドもバック・ドロップ

ネック・ブリーカーでまたしても攻守逆転

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そしてコブラ・ツイストを決めたところでハンセンが乱入

試合をぶち壊したのです。

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18分8秒、バックランドの反則勝ちとなりました。


この日は生中継で、この後

ハンセン対アンドレ、猪木対藤波という

重要な二大公式リーグ戦が控えており

非常に時間も押していたのです。


しかし、そういう事情を

両者、よく把握していなかったのか

単に試合づくりが下手だったのか

は分かりませんが

生中継で、このポジションの試合にしたら

異常に長い試合だったと思います。


ハンセンは5日後に予定されている

バックランドのWWF王座挑戦に向けての挑発というよりは

「いつまでやってんだ。この辺で試合を終わってくれ」

とシビレを切らせての乱入だったのかもしれませんね笑

昭和54~55年辺りに、新日と国際の間で互いの団体で

対抗戦とも交流戦ともいえる試合が行われていました。


特にその中で最高のカードと言えば

昭和55年4月3日、蔵前国技館で行われた

WWFジュニア・ヘビー級選手権

<王者>藤波辰巳 対 <挑戦者>阿修羅・原

の一戦だと思います。


原はWWUジュニアヘビー級王者として

新日のリングに上がり、藤波のベルトに挑戦する形となりました。


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パイルドライバー(B・タイガーばりの暗闇脳天)

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そして元日本代表ラガーの強烈なタックル

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しかし藤波が3発目をかわし

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スイング・ネック・ブリーカーへと切り返し

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トップロープに上がりますが

原がデッドリードライブで再び形勢逆転

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鉄柱攻撃で藤波を流血させ

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必殺のサモアン・スープレックス(バックフリップ)を浴びせました。


これは完璧でした。

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しかし、これを返した藤波は

投げっぱなしジャーマンから

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最後は「新日」を魅せようと思ったのか

珍しい逆片腕固め(三角絞め)を決め

12分56秒、ギブアップを奪ったのです。

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この対戦は国際プロが倒産し、新日に吸収合併された初戦の

翌年10月8日に再戦が予定されていたものの

原が全日を選んだため、カードは流れました。


また新日とWARの対抗戦でも

一騎打ちはなく

よって、これが唯一のシングルとなったのです。


また当試合は、ダイジェストながら

「国際プロレスアワー」でも放送されました。

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オールスターを除き、同一試合が2局で実況放送されたのは

この試合だけだと思いますね。

昭和55年5月30日、高松市民文化センターに於いて

第3回MSG決勝リーグ公式戦

A猪木 対 藤波辰巳

の一戦が行われました。

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まずは新日らしく、双方のブリッジを披露

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その後、猪木がコブラツイスト

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逆水平チョップ

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リバース・スープレックスを仕掛ければ

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藤波はなんと

パワーボムのような技で切り返します。

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そして場外にエスケープした猪木めがけて

ドラゴンロケットから

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プランチャーを仕掛けますが

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これをかわした猪木はバックドロップで勝利したのです。

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この頃、藤波はまだジュニアであり

猪木との差は歴然としていました。


藤波が猪木からシングルでフォール負けしなくなったのは

2年後になりますね。


しかしこの高松市民文化センター


集客数は5000人以下の会場なのに

当日は猪木対藤波の他、ハンセン対アンドレ バックランド対ホーガン

翌年はバックランド、ローデス対ハンセン、ホーガンの究極のドリームタッグマッチ

その2年後の第1回IWGPでは、猪木対前田 アンドレ対ホーガン

という好カードが組まれ、必ずTV中継されました。


有力な地方後援者(プロモーター?)でもいたんですかね

昭和55年8月29日、鳴門市市民体育館に於いて

藤波辰巳 対 P・ロバーツ

の一戦が行われました。


まずはフェアに握手する両者

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試合開始すると、ロバーツはヘッドシザースで藤波を一回転

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一方の藤波はブリッジからモンキーフリップでお返し

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しかもロバーツはブレーンバスターで切り返します。

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さらにサイドスープレックスと大技を連発

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しかし、藤波は走り込んでくるロバーツのストマックにヘッドを打ち込み

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最後はジャーマン・スープレックス

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カウントスリーが入り、藤波が勝利しました。

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試合後は抱き合って抱擁し、健闘を称え合ったのでした。

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ウィキによると

「P・ロバーツはT・S・クレアーの父親であるF・グレゴリーのトレーニングを受け、1960年代初頭にデビュー。73年10月14日には、ベルリンであのR・ボックと対戦し、時間切れ引き分けの戦績を残しました。
ボックはロバーツについて、自分が出会ったレスラーの中で最高のテクニシャンの一人だったと評している

新日には74年にK・ゴッチのブッキングで新日に初来日し、77年1月の来日に於いて新日マットに初登場したS・ハンセンと意気投合し、以降ハンセンとは公私に渡り、友人関係を築いた。84年11月、再びK・ゴッチに請われ、第1次UWFに登場UWFには翌85月にも来日。86年7月からは、親友ハンセンの仲介で全日に参戦。渕の世界ジュニアヘビー級王座に3度挑戦するなど好試合を展開した」

とあります。


なかなか当時は目立たない印象がありましたが

今思うと、相当な実力者だったんでしょう。


マレンコ兄弟、M・ジョーンズ、S・ライト…など

ヨーロッパにはこういう選手が多いですね。

新日が開催した80ブラディ・ファイト・シリーズ開幕戦


昭和55年8月22日、品川プリンスホテル・ゴールドホールに於ける

セミファイナルで

坂口征二対S・ハンセンの一戦が行われました。


春のMSGシリーズ以来、2ヶ月半ぶりに来日したハンセンは

開始のゴング前から、坂口のタオルで首を絞め

優勝を逃したウサ晴らしをするかの如くの暴れっぷりであります。

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しかし、これに坂口が怒りました。

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「元柔道日本一」が繰り出す左一本背負い投げ

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更に棍棒のような腕からの逆水平チョップ

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コブラツイストで締め上げ

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ボディスラムで叩きつけ

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そして丸太棒のような足でのジャンピングニーパッド

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体格でも全く引けを取らない坂口が

ハンセンを攻め込みましたが


場外でのラリアットで形勢逆転され

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そして、リング内でラリアット2連発

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終わってみれば、短時間で

ハンセンの完全勝利だったのです。

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ちなみに猪木対ハンセンのシングル通算戦績は

猪木の17勝3敗4分けなのに対し

坂口対ハンセンは全く真逆で、ハンセンの17勝3敗6分けです(*ハンセンの負けは全て反則負けと思われます)。


しかしハンセンが引退直前に出版した

著書「魂のラリアット」(双葉社)において

ハンセンは両者に対し、興味深い評価をしています。

常に『強い』という印象を持ったのは坂口だ。私のレスラー生活27年の中で、こと脚力に関する限り、坂口をしのぐレスラーを見たことはない。『最もボディスラムを掛けにくい相手』というのは坂口の為にあるような例えで、無理に持ち上げようとして背中を痛めたことも2度や3度ではなかった。試合が終わってホテルへ戻った時、肉体的な痛さ、疲れを感じたことはシリーズで二、三度あったが、その夜の相手は決まって坂口だった。時として猪木とやった試合の倍以上の疲労感が残る」175~176

というものでした。


坂口対ハンセンは、「5分以内で坂口がやられる」というのが

当時の私の印象でしたが

今思うと、短期決戦だったのは

坂口のダメージではなく

ハンセンのダメージが大きすぎて、それ以上戦えなかった

のかもしれません笑


やっぱりプロレスは深すぎます…

だから面白いんですけどね。

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