タカサキの「結局プロレスが好きっ!」

富山県氷見市の接骨&指圧鍼灸院院長の趣味ブログです。 ご意見はtakasaki@p1.cnh.ne.jpまでどうぞ

新日・春の祭典、第5回MSGシリーズが

1982年春に開催され

3月17日、岐阜市民センターに於いて

A猪木 対 R木村

の公式リーグ戦が行われました。

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過去4大会すべて優勝し、5連覇を目指す猪木は

ショルダー・アーム・ブリーカーから

腕ひしぎ逆十字固めで木村を仕留めようとします。

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しかし、過去にこの技でレフェリーストップで負けている木村は

脱出後、逆水平チョップで反撃しますが

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猪木は延髄斬りを浴びせました。

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まともに食らった木村は

そのまま場外へ転落

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「この好機を逃すか」とばかり

木村を追っかけ、自らも場外に出た猪木

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しかし、これが墓穴を掘ってしまう結果となり

9分24秒、両者リングアウトに終わったのです。

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実はこの試合前まで猪木とR木村の対戦成績は

猪木の1勝(TKО勝ち)2敗(反則負け、リングアウト負け)であり

4試合目を終えても、結果だけ見れば

猪木はタイに持ち込むことはおろか

まだフォール勝ちすらできませんでした。


猪木が木村からピン勝ちするのは

半年後の9月21日の大阪大会であり

その後、1対3を2回やってますので

勝ち越すのは,更に7ヶ月後の

翌年4月3日の蔵前大会となります。(*1対3も木村の勝ちに含めると、最終的には猪木の6勝4敗)


よく猪木とR木村の試合では

「猪木がズタボロにした」とか、「屈辱的な扱いにした」とか言われてますが

私は、「決してそんなことはない!」

と思ってます。


むしろ、「アニキ」であるG馬場は

木村には1度も負けておらず(*対戦成績は多分、G馬場の5勝0敗)

言ってみれば

馬場の方がR木村に対する扱いは悪かったんじゃないですかね笑

猪木が提唱した世界統一・IWGP


猪木本人だけでなく、我々猪木ファンも期待に胸膨らませて2年半

夢がついに現実のものとなって

あと一歩のトコまで来ました。


今日(2023年6月⒉日)から、ちょうど40年前の

1983年年6月2日、IWGP優勝決定戦


世界各地からの代表者10名が

全国津々浦々で28日連続興行の決勝リーグを行い

最後に残ったのは

A猪木とH・ホーガンであります。

19830603_2

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猪木は191センチ、105キロの40歳

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ホーガンは201センチ、145キロの29歳

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この比較だけでも猪木が不利なのに

前年の内臓疾患による体調悪化で

まだ完全復帰とはいえない猪木


試合開始から一進一退の大熱闘の攻防でしたが

バックドロップとアックスボンバーを食らった15分過ぎから

急に顔面蒼白となり、動きが鈍くなってきました。


それでもホーガンの攻撃をかわし、肩車で持ちあげます。

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しかしあまりの重さに耐えきれず、そのまま後ずさり

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勢い余って、そのまま後方へ一回転し

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両者共々、リング下へ転落してしまいました。

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場外で思わずホーガンに背を向けてしまった猪木


すると後頭部へのアックスボンバーを食らい

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鉄柱へ反動も含め、2度顔面を強打したのです。

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先にリングにホーガンが上り

後から猪木がエプロンに立った時

走ってきたホーガンの強烈なアックスボンバーを食らい

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再び場外転落

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セコンドの坂口らが慌てて猪木をリングに戻しますが

立ちあがれない猪木はノックアウト負け

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3年越しの夢は実現することなく

ホーガンが世界統一を果たしたのでした。

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そしてこの後の騒動は色んな意味で

言うまでもないと思います。


失神から目覚めない猪木

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必死の形相でホーガンに抗議する坂口

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そして、焦った表情のホーガン

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全てがリアルに写った事と思います。

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しかし、21世紀に入って

この試合を裁いた男が

「猪木の一人芝居だった」と、証言し

今はこの世紀の一戦は「一人芝居」とか

あるいは坂口が「人間不信」という紙を貼ったとして

これらの4文字で片付けられています。


でもこの試合、何度見ても何度見ても本当に素晴らしい内容で

前半は本当に「両者とも、勝ちにいってる」内容でした。


猪木の卍固めがかわされ、延髄斬りをエルボーで返された時

「もうこの時点で勝負あった!」と思いましたね。


私自身は色々この試合で感じた事があり

ビデオをお持ちの方は確認してみてください。


まず先ほど申した猪木の肩車ですが

あれは本当に危険だったと思います。

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猪木は全く後ろを確認せずに後方へ下がっており

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145キロという巨体を担ぎながら、後方回転して転落した際も

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全くロープを握ってません。

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これがまず驚きました。


続いて場外での後頭部アックスボンバーですが

ホーガンの気配に、猪木は全く気付いてないですし

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まともに鉄柱に激突しています。

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ハッキリ言って

肩車での後方回転転落と後頭部ボンバーで

十分なダメージだったはずですね。


しかしながら最後の決め手のアックス・ボンバー

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受けた後も猪木の右手は

この時は最後までロープを握ってます。

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よってまだ握力はしっかりしてますので、アックスボンバーを食らった時点では

十分意識はあったという事になります。


もしボンバーの勢いがすごかったり

或いはそれまでの攻撃によって猪木の意識が朦朧としていたら

当然、猪木の右手はボンバーを食らったらすぐにロープから離れ

猪木はものすごい勢いで場外フェンスに叩きつけらてるはずです。

(87年8月20日の前田対マシンのラリアットや88年6月24日、大阪での藤波対長州のラリアットがそうでした)


ただ猪木は体を捻るように転落してますので

もしかしたら、猪木の頭部はマットからずれて

直接床に激突したのかもしれません


そういうことなら、猪木が失神するほどの致命的なダメージは

ボンバーそのものではなくて

後頭部直撃が原因と考えられます。


さて、ここで「一人芝居」と発した男の大嘘を言います。

2008年9月26日第1刷が発行された別冊宝島1557

『新日本プロレス黄金時代「伝説の40番」完全解明』

という雑誌で、この男は23Pにおいて

「坂口さんらセコンドが無理やりエプロンに猪木さんを持ち上げ、リング内に押しこもうとするが猪木さんは舌を出したまま動かない」

という記述があります。


しかし、これは嘘です。
]

坂口が猪木を無理矢理戻したのではありません。

この男がカウントを数えながら

心配する坂口の背中をトントン叩き「早くリングに戻せ」と指示してるのです。


これははっきり映像に写ってますので、確認してみてください。

10-5


だから、あえて言うなら「一人芝居」ではないのです。

「芝居」ということ自体、もう腹立つ言葉ですが

百歩譲って、猪木の失神が意図あるものだったとしたら

それは猪木だけでなく、この男も絡んでいて

自分は責任逃れをしようとしてるのがよく分かります。


あと「舌出し」ですが、これは猪木が自分で出したのではなく

木村健吾が安全策のために、自分の指を入れて、出してただけです。

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それぐらい、至近距離にいた人間なら分かってもいいはずなですけどね(笑)


もうこの時点で、この男は終わってるんです。


あと、最後にすごいと思うのは・・・

人間、「他者に指を口に中にずっと突っ込まれても

ずっと平気で失神したふりをしてられるのかな~」とも思います。


私なら「オエッ」として、とても耐えられないし

少なくとも表情には出ると思いますね。


まあ検証すればするほど、答えが見つからず

私にしたら「6.2失神事件」はすごい試合なのであります。

新日・85新春黄金シリーズも残り1週間となった

昭和60年2月1日、成田市体育館では

H・ホーガン 対 K・バンディ

の超大型外人対決が行われました。


前年暮れ、MSGタッグリーグ戦に於いて

開幕戦での頭部損傷により

以後、欠場したホーガンは見事復活し

当シリーズの最初の1週間にケジメ参加

以後、アメリカへいったん帰国し

当日よりまたUターン参戦


まずはいきなり巨鯨・バンディと

注目の対決となったのです。

ホーガン対バンディ00h00m20s26


しかし、日本マット初登場ながら

エース格として来日し、張り切るバンディは

タックルでホーガンを倒すや

ホーガン対バンディ00h00m24s50


数日後に控える猪木との賞金マッチの

デモンストレーションとばかり

巨体ホーガンをボディ・スラムで叩きつけました。

ホーガン対バンディ00h00m57s53

ホーガン対バンディ00h01m02s36


更にお株を奪うベアハッグで締め上げ

ホーガン対バンディ00h02m54s46


フライング・ボディ・アタックで

大金星を狙いますが

ホーガン対バンディ00h04m58s00


これはホーガンがかわします。

ホーガン対バンディ00h04m58s66


そしてホーガンが得意のアックス・ボンバーで

流れを変えるも

ホーガン対バンディ00h05m11s59

ホーガン対バンディ00h05m12s16


その後、場外に移行


オーバー・ザ・フェンスにより

ホーガンの反則勝ちとなったのでした。

ホーガン対バンディ00h05m38s59


まあ大阪、札幌でバンディは猪木とのボディスラム・マッチ

ホーガンは藤波との2連戦があり

お互い無理せずに終わった…という感が否めず

盛り上がりに欠いた試合展開ではありました。


しかし翌年4月7日、アメリカで開催された

アメリカ大陸横断3都市同時開催

「レッスルマニア2」におけるロサンゼルス大会では

見事メインカードとなりましたね。

長州力が率いる軍団が

ジャパン軍でもなく、維新軍団でもなく、革命軍でもなく

まだ「放浪の新狼軍団」と呼ばれていた昭和58年の新春黄金シリーズ


1月20日、大分県立荷揚町体育館では

A猪木、坂口征二、藤波辰巳 対 M斎藤、K・カーン、長州力

という6人タッグマッチが行われました。

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新日軍、新狼軍、国際軍の三つ巴抗争が勃発していたこの時期

試合途中に誰かが乱入しての反則や無効試合裁定は

当たり前でありましたが


この日はちょっと違いました。


時に午後8時48分(おそらく)

両軍入り乱れての場外乱闘の際

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国際軍の3人が乱入し、リング内にいた猪木を

会場外(控室)に拉致してしまったのです。

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リング内に5選手が戻るも

2対3の状況では正規軍が圧倒的に不利であり

カーンのニードロップ、長州のラリアットなど

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12分42秒、反則負けとなったものの

新狼軍がやりたい放題の独壇場となり

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そして、そのまま中継も終了してしまいました。

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会場にいた観客はもちろん

その日、生中継でテレビを見ていた人も

「一体、何が起こったのか!?」

口ポカーンだったことでしょうね。

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この試合を改めて見て、気づいたのは

新狼軍のコール順が

長州→カーン→M斎藤だったこと

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おいおい長州

「前年10月8日、猪木藤波長州のトリオで、1番先にコールされたので、頭に来てリングアナにイチャモン付け、その勢いで造反したハズなのに、軍団結成してからも、結局一番先に呼ばれてるじゃんかよー!!」

って、思わずツッコんでしまいました~笑


ただ、このタッグマッチこそが

これまで行われた新日軍対長州軍の中で

最高の顔合わせであることは間違いないですね。

新日が開催した第2回MSGタッグリーグ戦は

2週目に突入


1981年11月27日、徳島市体育館に於いて

セミで両軍リングアウトに終わった

S・ハンセン、D・マードック 対 A・ジャイアント、R・グレイ

の試合後の乱闘が、場内外で繰り広げられる中

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テーマソングなしにメインに登場するA猪木が

険しい表情で姿を現しました。

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猪木にしたら

「生中継で時間もないっていうのに、いつまで乱闘してるんだ!」

と内心思っていたことでしょう。


メインエベントは

A猪木、藤波辰巳 対 K・カーン、T戸口

の公式リーグ戦でしたが

この試合前もグダグダで

前シリーズから抗争を展開している

R木村ら国際軍が乱入し

ドサクサに紛れての試合開始となったのでした。

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そういうわけで、大型パワーコンビが優勢の中

試合が展開されたものの

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猪木のドロップキックで形成逆転

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さあここからという時…

先ほどの乱闘騒ぎで、テレビ局側もモタモタになり

流されなかったCMが試合途中で流されたのです笑

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このCM中に決着がつかなくてよかったですね笑


結局、放送時間も無くなり

次週予告が流れる中

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最後の最後で猪木が延髄斬りを戸口に食らわし

カウント2のところで、テレビ放映は終わったものの

猪木組が勝利しました。

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(テレビマッチで)延髄斬りがフィニッシュになったのは

この試合からだと言われています。


時間ギリギリで、咄嗟に出した延髄斬りによって

うまく試合を終わらせたことで

猪木は「これはいける」と判断し

以後の決め技に使っていったとも考えられます。


もしそれが事実であれば

この試合は「延髄斬りフィニッシュ記念試合」

ということになりますね。





前年暮れにハンセンが離脱し

更に猪木が長期欠場した昭和57年は

タイガーがいてくれたからこそ

新日ブームは揺るぎなかったのは

間違いない事実だと思います。


しかしなぜだか分かりませんが

個人的には、そんなにタイガーが好きではありませんでした。


なので猪木が(ほぼ)欠場していた5月~9月にかけて

私は一時期、「ワープロ中継」を観なかったこともありました。


また見出したのは

9月21日、大阪大会における

猪木とR木村の髪切りマッチからです。


それ以後、猪木対国際軍の抗争、長州の造反など

再びテレビ前に釘付けとなり

それに従って

タイガー対小林の試合を観ましたところ

11月4日の蔵前での試合は

本当に素晴らしいと思いました。

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タイガーがハイキックを放てば

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小林は後ろ回し蹴りでお返し

3 (2)


するとタイガーはその上手をいくローリング・ソバットを繰り出す

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小林が得意のフィッシャーマンズ・スープレックスを出せば

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タイガーはスームストン・パイルドライバーで切り返す

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という風に、両者のプライドが技の応酬となって

大いに試合を最高潮に盛り上げたのです。


さらに当時では信じられない技


それは後方に一回転しながらのニードロップ

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もう1つはバック宙からのドロップキック

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これには驚きましたね。


結局、最後は小林がマスクを破いての反則負けでしたが

それでも十分納得の試合でした。

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以後、ジュニアの試合は

更にどんどん技が高度化していきますが

全ては初代タイガーが築いた礎ではないかと思いますね。

1985年3月14日、愛知県体育館において

R・ウォリアーズ(王者組)対長州力、K・カーン(挑戦者組)という

日本で初の、AWA世界タッグ選手権が行われました。


1


思えば、5日前の3.9両国二大メインでは

長州は全くいいトコなく、ブロディに滅多打ちにされ

一方のウォリアーズは

鶴龍相手に消化不良の試合を行った

という事で、お互い共に

「名誉挽回」的な一戦と言えます。


先に登場した挑戦者チームは

非常に厳しい表情


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対するベルトを巻いた王者チームは

何やら余裕の表情でした。


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リング内に入るや

いきなり長州とカーンに襲い掛かった暴走戦士


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そのまま試合が始まりましたが

まるで長州を子ども扱い


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何とかサソリ固めを決めますが

これを何と腕立て伏せで切り返します。


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またアニマルは、140キロのカーンを高々とリストアップし

マットに叩きつけました。


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この日は両国とは違い

本来の実力を見せつけたウォリアーズ


しかしながら戦場を場外に移し

結局5分35秒、両軍リングアウトとなり

王者組の防衛となったのであります。


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今回も一方的にやられ

ほとんどいいトコがなかった長州でした。


しかし個人的には、ブロディとのタッグ戦と違い

余裕を持って、ウォリアーズの攻撃を全て受けているように見え

ブロディ戦のような危険な匂いもなく

安心感はあったように感じましたね。

86ジャパンカップ争奪タッグリーグ戦


昭和61年11月24日、札幌中島体育センターのメインカードとして

A猪木、藤原喜明 対 D・マードック、M・スーパースター

の一戦が行われました。

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猪木と藤原は師弟関係を経て、新日とUWFで袂を分かち

この時はいわば敵対している時期であったのですが

当タッグリーグ戦・出場チームのファン投票3位に選ばれ

越境コンビとして出場することになったのです。


しかしリーグ戦もまだ2週目ということで

まだ不協和音が心配されていました。


猪木とマードックの寝技の攻防の際も

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藤原はコーナーに立ち

やや冷めた目線で見つめている感があります。

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そして、注目のマードックの対戦では

スタンドから脇固めを狙い

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そのまま寝技に持ち込んで、がっちり極めました。

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また代わったスーパースターにも完璧に極めます。

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試合の方は、スーパースターのラリアット

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ブレーン・バスターに苦しんだ猪木でしたが

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最後はイス攻撃の誤爆を誘い

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10分32秒、バックドロップからの体固めで

スーパースターを葬ったのでした。

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試合後はがっちり握手

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以後の試合で、少しずつ阿吽の呼吸を見せ合っていったのでした。


思えば、3年前までは前座の位置を温めていた藤原


翌59年のテロ行為から、UWFに移って

前年暮れに新日にUターン


それから1年が経ち

ようやくTVマッチで主力外人選手と

当たり前に対等に闘うようになりました。


ずっとずっと前座の地位から色々あって

37歳で、ようやくメイン登場なんて

だからプロレスは面白いんですね。

第2回MSGタッグリーグ戦が

1981年11月20日、志木市民体育館で開幕


メインエベントで

A猪木、藤波辰巳 対 A・ジャイアント、R・グレイの

公式リーグ戦が行われました。

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「パートナーなど不要。オレ1人で十分!!」

とばかり

アンドレは藤波をアームロック・スープレックス(*私独自の命名)から

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ヒップ・ドロップ

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猪木には、体落とし風の首投げで押し潰し

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更にデッドリードライブで叩きつけます。

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大ピンチの新黄金コンビでしたが

グレイのドロップキックの誤爆を誘ってから、形勢逆転

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2人がかりのボディスラムでアンドレを投げつけ

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グレイに対し、藤波がドロップキックで場外に蹴落とすや

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ドラゴン・ロケットを自ら狙撃

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しかし、ここでアンドレが救出に入り

場外で藤波にボディスラム

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その後、グレイが無理心中を図り

結局、13分53秒、両軍リングアウトに終わったのです。

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勝てた試合だけに、猪木はボー然

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一方、痛み分けでありながら

勝利した…いやっ、優勝したかのような

勝ちどきを上げるアンドレとグレイ

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そして、最終的には大巨人組が優勝を果たすのですが

この開幕の時点では、誰も予想してなかったでしょうね。

新日・81年の掉尾を飾る第2回MSGタッグリーグ戦が

1981年11月20日、志木市体育館で開幕


セミファイナルで

K・カーン、T戸口 対 S・ハンセン、D・マードックの

の公式戦が行われました。

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カーンと戸口は

5ヶ月前に一騎打ちで遺恨を残しましたが

いつの間にやら、和解して(?)の

リーグ戦初参加であります。

1


一方のハンセン、マードックも

チーム名を「ザ・テキサス・ロングホーンズ」として

(新日で)初のタッグ結成


興奮状態のハンセンは、リングインするや

ブルロープで花束嬢を威嚇しました。(*向かって右の嬢は、意外と冷静です笑)

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試合は、ロングホーンズが連携プレーで勝り

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最後はエプロンに戸口に対し

ハンセンがラリアットで場外葬

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4点を獲得したのです。


昨年の第1回大会の開幕では

ハンセン、ホーガン組対シン、上田組が実現し

これがメチャクチャ面白く

私はプロレスにハマってしまったのですが(*そのインパクトは今でも鮮明に覚えています)

残念ながら、私のテンション的には

前年の半分以下だった記憶がありますね。


当大会には、夏から「黒人最強コンビ」として結成した

A・ブッチャー、B・アレン組に出てもらい

開幕で、ハンセン、マードック 対 ブッチャー、アレンを

組んでもらいたかったですね。

(*前シリーズにブッチャー対マードックが2度流れているだけに尚更!!)

全日プロ・年末恒例の5世界最強タッグ決定リーグ戦

85年大会開幕戦は11月21日、大阪府立体育会館での開幕戦


のっけから

S・ハンセン、T・デビアス対Ⅾ・キッド、Ⅾ・スミスという

注目の公式戦が行われました。

1


全日に電撃移籍してちょうど1年

前年は鶴龍組、超獣組、世界王者組、ファンクスに次いで第5位という

好成績を収めたキッド、スミス組


超獣コンビにも10分以上の闘いを展開し

苦戦に追い込んだ実績があります。

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一方、今年からデビアスを新パートナーに指名したハンセンは

自身の2度めの優勝を狙ってる事でしょう。

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試合は両チームのコンビネーション合戦となりました。


ハンセン組のダブル・エルボーとアトミック・ドロップ

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キッド組のダブル・タックルとブレーン・バスター

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しかし5分過ぎ

試合権利のないハンセンが突如中に入り

スミスにラリアットをぶちかますや

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続けてデビアスはパワースラムを浴びせ

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これがフィニッシュとなり

何と5分余りでハンセン組が勝利したのです。

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勝ったハンセン組は、この勢いのまま優勝


今なおファンの間では

「ハンセンの数あるパートナーの中では、デビアスが最高」

という声が多いですね。


1989年6月17日、WCWのリングに於いて

G・ムタ 対 D・マードックの一戦が行われました。

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試合開始直後

ムタはいきなり緑の毒霧を吹いて、威嚇

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しかし、そんなことも怯まないマードックは

ドロップキック、顔面パンチ、エルボーバッドと攻め

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得意のブレーンバスターで試合を決めようとしますが

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これを切り返したムタ

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その時、マネージャーがエプロンに上がって

レフェリーの目を盗んだスキに

今度は赤い毒霧を噴射し

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マードックから3カウントを奪ったのです。

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武藤が(2度目の)帰国を果たしたのは翌年4月でしたが

当初は、G・ムタとして1990年2月10日の東京ドーム大会に

凱旋帰国し、R・フレアーへのタイトルマッチが予定されていました。


今更ではありますが…

最初の1年ぐらいは、G・ムタとして

完全ヒール扱いで来日を果たしたほうが

ムタらしさを十分発揮できたかもしれない

と、この動画を見て思った次第です。

平成2年2月10日、新日主催の東京ドームに

初めて、「サンライズ」の曲が流れ

8年ぶりにS・ハンセンが登場しました。


果たして、これは「夢」か? それとも「幻」か?

1


いや、確かに現実

IWGPヘビー級選手権として

<王者>B・ベイダーに挑戦する為に

新日マットに殴り込みをかけてきたのです。

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新日最強のベイダーか? 全日最強のハンセンか?


昭和最強のハンセンか? 平成最強のベイダーか?


ホントにホントに頬をつねりたくなる対決が実現しました。

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ベイダーをコーナーに追い詰め

顔面にエルボーを狙うハンセン

5-4


その後も、執拗な右目の攻撃により

たまらずマスクを脱いだベイダー

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なんと腫れがすごく、右目が潰れてしまったのです。


オーロラビジョンに映し出されたベイダーの顔に

6万人の観客からすごいどよめきが起こりました。

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しかしものともしないベイダーは

コーナーからのダイビング・ボディ・アタックをぶち当て

お株を奪うラリアットを先に食らわします。

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これに怒ったハンセンもお返しのラリアット

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まさにあの伝説の田コロを超えるド迫力の闘いを展開したのですが

結局、そのまま闘いの場を場外に移し、両リンの裁定


しかしながら、納得の試合内容だったのでありました。

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そのハンセンは、翌3月6日、武道館ではゴディ、ウイリアムス組に敗れて、天龍と仲間割れ

翌シリーズより、スパイピーとタッグを結成(*年末最強タッグに出場)

WWF主催の4月13日、東京ドーム「レスリング・サミット」では、ホーガンと闘い、敗退

6月2日の美唄大会では、特別参加のビガロと組んで三沢、小橋組と対戦。5日の千葉ではウィリアムスに勝利。8日の武道館ではゴディに勝利し、三冠王者

12日より、またまた新日に登場し、福岡でベイダーと再戦し、両リン。14日の大分では長州と組んで橋本、マサ組と対戦。16日の屋久大会ではP・キッドと組んで武藤、蝶野組と対戦。18日の熊本ではまたまた長州と組んで、ベイダー、浜口と対戦し、仲間割れ

そして9月30日は昼間は横アリでのA猪木30周年にゲスト参加し、夜の後楽園でのG馬場30周年記念では、アンドレと組んで、馬場、ブッチャー組と対戦…

と、まあ半年で、三団体、二局を行ったり来たりし

多彩な一流レスラーと組んだり、闘ったりしての大活躍だったのでありました。

新日・第2回MSGタッグリーグ戦が

1981年11月20日、志木市体育館で開幕


公式タッグ戦のオープニングマッチは

長州力、谷津嘉章 対 ザ・サモアンズ

の一戦でありました。

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まだ国内デビュー5ヶ月の谷津は

「南海の殺し屋兄弟」計260キロ以上の

ダブル攻撃に苦しめられ、大ピンチ

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しかし、一か八かの前方回転エビ固めを

サモアン1号に決めて

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4分6秒、電光石火で大逆転勝利し

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早々の勝ち点5を獲得したのでした。


パートナーの先輩・長州は

一度もリングで試合することはなく…笑

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勢いに乗る「アマレスコンビ」は翌週のテレビマッチでも

カネック、マキナ組に勝利しましたが

最終的にはこの2勝のみに終わり

2勝4敗3分けの16点で10チーム中、第7位に終わったのです。


まさかこの長州、谷津が4年後に

全日の最強タッグに出場し

優勝争いを行うとは

勿論、この時点でだれも想像していなかったハズです。

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その入れ替わりに…

ではありませんが

当年の世界最強タッグに出場し、優勝した

B・ブロディ、J・スヌーカ組が

4年後には、新日のIWGPタッグリーグに出場し

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あのような騒動を起こすなんて…

まさに、プロレスは

「ヒューマン・スクランブル・ロマン」ですね。


さらに加えて言えば…

長州、谷津組は94年の新日・ワールド・タッグリーグ戦に

ブロディ、スヌーカ組は87年の全日・最強タッグに

出戻り参加を果たすのですから

プロレスは「ヒューマン・ブーメラン・ロマン」とも言えますね。

1988年暮れに新日が開催した、JC争奪イリミネーション・リーグ戦


これはトリオにより、優勝を争うタッグリーグ戦で

新日にとっても、初の試みであったのですが

最終戦の12月7日、大阪府立体育会館に於いて

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A猪木、長州力、星野勘太郎組と

藤波辰巳、蝶野正洋、橋本真也の間で

優勝決定戦が行われました。


当初は猪木と組んで出場予定だった蝶野と橋本


しかし藤波の強引な誘いに応じ

逆に「打倒!猪木」を合言葉にトリオを結成し

リーグ戦では最高得点で、決勝に進出したのであります。

1


一方、57年10月8日、あの「かませ犬発言」の日以来

6年ぶりにタッグを組んだ猪木と長州は

2位でリーグ戦を終え

同日行われた坂口組、マードック組との3チームによる

優勝戦進出決定トーナメントを勝ち抜いて

決勝に上がってきました。

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どうしても優勝したい藤波組は

まず星野に照準を絞り

藤波が早々とドラゴン・スリーパーを繰り出して、ギブアップを奪い

試合を優勢に進めます。

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更に長州をコブラ・ツイストで捕えるや

蝶野、橋本に対し

「自分を含め、2人まとめて場外に落せ!」

と指示を出しました。

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戸惑いながらも、2人がかりで

藤波と長州をのタックルで場外に落した闘魂二銃士


そして若い2人に託す思いで

長州と共に奈落の底に無理心中したドラゴン


これでリング上は、猪木対蝶野、橋本という

非常に注目の局面となったのです。


猪木の首を獲りたい橋本は

ニールキックを仕掛け、勝負を賭けるも

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猪木が間一髪かわしました。

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そして、橋本が立ち上がる瞬間を狙って

電光石火の延髄斬りを食らわし

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これが見事にカウント3

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最後に残った蝶野は、バック・フリップ等で猪木を追い詰めますが

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最後はグランド卍固めに屈したのです。

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蝶野と橋本から完全勝利した猪木にしたら

前年の大阪城暴動、世代闘争、両国暴動、前田解雇、ゴールデンタイム撤退、飛竜革命、自分の引退騒動・・・

とかなり崖っぷちな状況の中、このシリーズの優勝により

「終わり良ければ、全て良し!」という感じで

何となく元鞘に収まった、と感じがしました。

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しかし翌年は4月のドームのIWGPトーナメントでは

蝶野が1回戦負け、橋本が準優勝

暮れのワールドカップ争奪シリーズでは

蝶野が準決勝敗退、橋本が準優勝という扱いなのに

この時は、まだ蝶野の方が格上扱い

というのが面白いですね。(*予選でも橋本が先に失格)


いやっ、それは

単に試合の流れでそうなったか?

あるいは猪木が

「面倒」な橋本を自分のスタミナのある内に仕留め、戦いやすい蝶野をあえて残したのか

ということなんでしょうけど…笑
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A猪木対谷津嘉章と言えば

1983年11月3日、蔵前国技館に於ける

綱引きマッチが語り継がれていますが

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実は、遡ること1年8ケ月前の

前年3月15日、愛知・津島市民会館での

第5回MSGシリーズ公式リーグ戦30分1本勝負で

初対決が実現していました。

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あの悲惨なデビューで

「凄いやつ」から「ダメなやつ」へと急転直下した谷津

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猪木との対戦で、取り戻したい思いでしょう。


しかし開始直後のドロップキックはあっさりかわされ

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早々と場外に放り投げられました。

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リングに戻った後は

腕ひしぎ逆十字固め、インディアン・デスロック、弓矢固めといった

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「プロ」の技に翻弄され

最後はアリキックからの延髄斬りで

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5分27秒、体固めであっさり敗れ去ったのです。

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まあ、谷津の話はこの辺でいいとして…(笑)


当シリーズは猪木、谷津の他

坂口、藤波、長州、K・カーン、R木村、戸口

と日本人選手は計8名が

リーグ戦に参加していました。


私が当時、疑問に思ったのは

前年から実施されていたIWGPアジア・ゾーン予選リーグを

何故、このMSGリーグ戦で兼用しなかったのか?

ということです。


前年の猪木、坂口、藤波、長州が出場した第4回MSGリーグ戦の日本人対決は

すべてアジア予選も兼ねており

それ以外に、藤波対木村健、長州対木村健、猪木対戸口、坂口対S小林

そして、当年1月28日に行われた坂口対R木村が

アジア予選として行われ

この第5回MSGシリーズの日本人対決を加えると

メンバー的にも、かなり説得力のある予選リーグとなったと思います。


結果として、兼用されず

また以後も、猪木の長期欠場等もあって

残りのアジア予選は全く行われず

翌年のIWGP決勝リーグ直前のシリーズに慌てて消化される形となり

きっと意味が分かっていなかったファンも多かったことでしょう。


加えて言うなら、藤波はヘビー級に転向し

また長州は造反して、革命戦士へと変身し

状況も大きく変わってしまいました。


それならば、81年時の予選は、一度ご破算にして

「もう1度、しっかりした形でアジア予選リーグを行えばよかったのに!」

と、当時強く思っていたことを

最近、この試合動画を見て、ふと思い出した次第です。


あの頃は、自分の全てが熱かったなあ~!!

昭和60年5月10日、福岡スポーツセンターにおいて

85IWGP&WWFチャンピオンシリーズが開幕

メイン・エベントには

新日マット初参戦となるJ・スヌーカが姿を現しました。

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なんといきなりA・ジャイアントとの

夢のコンビを結成

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迎え撃つは猪木、藤波の2代目黄金コンビであります。

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やはり心配された大巨人とのコンビネーションですが

藤波が同士討ちを誘う場面もありました。

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試合の方は、アンドレの18文キックをかわした猪木が

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延髄斬りを放ち

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すかさず、藤波とダブルドロップキックで場外へ転落させます。


こちらは絶妙のコンビネーション

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そのまま猪木はスヌーカにもドロップキック

猪木とスヌーカの絡みはこの1回だけでした。

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そして、両軍場外に入り乱れた末に

アンドレが猪木がフェンス外へ投げ出し

結果は、猪木組の反則勝ちとなったのであります。

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スヌーカはやはりブロディとのタッグが一番似合いますが

今、思いますと

シーク、レイス、ハンセン、アンドレ、ブッチャー…と

なんだかんだと、ソツなくこなしてた感はありますね。

日プロ新人時代、A猪木と共に

「若手三羽烏」と呼ばれていた

G馬場と大木金太郎


同じ釜の飯を食っていた2人が

1975年10月30日、蔵前国技館に於いて

一騎打ちを行いました。

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今や「全日プロのエース」G馬場

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そして、「韓国の英雄」大木金太郎

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どちらも負けるわけには言いません。


209センチの馬場に対して

大木は、さらに低い体勢で構え

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馬場のボディに得意のヘッドバッドを連打

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痛さのあまり、馬場が身をかがめると

今度は正面から一本足頭突きを食わらしました。

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これも連発により馬場は場外へ転落

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そして、石頭を何発も叩きつけられた馬場の額は流血

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大木はリング内で「どうだ!」と言わんばかりの表情です。

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しかしこれで馬場もスイッチが入りました。


リングに戻って、大木の眼前で気合を入れるや

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十八番のランニングネックブリーカーを完璧に決め

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この一発で大木を仕留めたのです。

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時間にして、僅か6分49秒の出来事でした。

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このタイムは、前年の猪木対大木の試合の約半分の短さであり

しかも、半年前の4月4日

猪木に1分16秒でリンガアウト勝ちをしている大木を破ったのですから

「やはり馬場は猪木より強い!」

と思わせる結果となりました。


実際、そう思ったファンがいたかどうかはわかりませんが

きっと猪木は悔しかったことでしょう。


6年後の1981年、春に馬場がリンガアウトでしか勝てなかった

大木の元相棒K・ドクことT戸口を引き抜いて、戦い

ほぼワンサイドで完勝し、第三者を介し

一応のリベンジを果たしたのです。


でも、ないか。。。


一応、参考的な試合結果を申します。
◇1974年10月10日、蔵前国技館
NWF世界ヘビー級選手権、無制限1本勝負
〇A猪木(13分13秒、体固め)大木金太郎●

◇1975年4月4日、蔵前国技館
第2回ワールド・リーグ公式戦30分1本勝負
◯大木金太郎(1分16秒、リングアウト)A猪木●

◇1975年10月30日、蔵前国技館
無制限1本勝負
◯G馬場(6分49秒、体固め)大木金太郎●

◇1981年4月21日、燕市民体育館
第9回チャンピオン・カーニバル公式戦30分1本勝負
〇G馬場(7分28秒、リングアウト)T戸口●

◇1981年9月23日、田園コロシアム
IWGPアジアゾーン・予選リーグ戦30分1本勝負
〇A猪木(9分20秒、グランド卍固め)T戸口●

平成7年3月20日、地下鉄S事件で、首都東京を大混乱させ

日本中を震撼させたO真理教


その1ヶ月後の4月23日には

何と幹部でのM氏が東京都M区に当時あった教団・東京総本部前で

200人を超えるマスコミ関係者が集まる中

Y組傘下の右翼団体「H組」構成員のJに

刃物で左腕と右脇腹を続けざまに刺され、殺害されるという事件が起こりました。


時はその事件より遡る事11年前

昭和59年6月14日、蔵前国技館に於いて

A猪木とH・ホーガンとの間で

第2回IWGP世界大会の

優勝決定戦が行われたのであります。

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前年度優勝のホーガンはベルトを巻いて登場

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この時、リング下の長州を見つけるや

お互いにらみ合いました。

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さて試合のほうは前回同様、大変白熱したものとなりましたが

17分14秒、両者リングアウトで引き分け

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館内から

ものすごい「延長」コールが沸き上がり

リング上も騒然としたものとなりました。


長州も状況確認のためか、場外の中央まで近づいております。

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協議の末、10分間の延長戦を行うも

これは足4の字固めの攻防の中

両者エプロンカウントアウトとなりました。

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この時、長州は隣にいたM斎藤や谷津と

何やら話し込んでおります。

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今度は時間無制限の再延長戦


猪木はロープ際と

カウンターと

2発のアックス・ボンバーを食らいました。

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そして両者場外に転落し、3発目のアックスボンバーを浴び

まともに後頭部を鉄柱に激突

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もう大ピンチの状況であります。


やっとの事でリングに戻ろうとする猪木の背後で

長州は蹲踞姿勢をとって見ておりました。


しかし臨戦態勢という感じではありません。

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エプロンに上がった猪木

まさか昨年のKOの再現かと思われましたが

レフェリーが間に入り、またしても両者は場外へ転落

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ここで長州が動きました。


疾風の如く入ってきて、まず猪木にラリアット

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そしてホーガンにも狙いますが

これはアックス・ボンバーとの相打ちとなります。

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この間に猪木はリングに戻り

なんと右手が挙げられたのでした。


リングアウト勝ちという事で

猪木の優勝という裁定になったのです。

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気が付けば、長州の姿は、もうありませんでした。


まさに一瞬の機会を狙った長州の無法乱入

一体どんな思いで試合開始前からずっとリング下にいたのか?


その心境は本人にしか分からないでしょう。


大変不謹慎ながら、11年後の「M刺殺事件」において

Jがずっと群衆の中に紛れ

何時間も機会を伺っていた姿をテレビで見た時

ふと、この試合の長州の行動を思い出しましたね。

1981年5月2日、ニューヨークに於いて

試合中にK・カーンがA・ジャイアントの足を骨折させる事件(*あえて言うなら、アンドレがカーンとの試合中に、骨折をするという事故)が発生


その7ヶ月後の12月8日、蔵前国技館に於いて

A・ジャイアント 対 K・カーンの因縁の対決が

日本で初めて組まれました。

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険しい表情のカーンに対し

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余裕綽々のアンドレ

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一体、どっちがどっちの足を折ったんでしたっけ?

と聞きたくなるくらい、対照的な両者の表情です。


そして、試合自体もアンドレのワンサイド

アームロック・スープレックス(*私が勝手に命名)

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ジャイアント・ギロチン

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アンディ・フグより10年以上前の踵落とし

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2階からのショルダースルー

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そして18文キックからのヒッププレスで

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8分10秒、日本で見事に復讐劇を演じたのです。

アンドレvsカーン 1981年12月8日00h04m31s53



試合後もアンドレの攻撃は止まることなく続けられ

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見かねた(?)ハンセンが乱入し

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(結果的に)カーンを救出するという始末となったのです。

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ここまで両者の差があっただけに

4ヶ月後の4月1日、同地・蔵前に於いて

あのような名勝負が展開されるとは

この時点では、誰も思わなかったでしょうね。

1988年暮れ、新日が開催したのは

88ジャパンカップ・イリミネーション・タッグリーグ戦でした。


これは参加9チームによる6人タッグ総当たりリーグ戦で

負けた選手が失格となって、最後に選手が残ったチームが勝ち


特殊ルールとしては

場外に落ちた段階でも、失格になる

というものです。


2週目の11月17日、福井市体育館に於いて

A猪木、長州力、星野勘太郎 対 D・マードック、B・オートン、S・ホール

という優勝候補同士の公式戦が行われました。

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試合はまず、長州のラリアットでホールが脱落

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次にマードックのブレーンバスターで星野が脱落

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そして、長州とオートンが場外心中となり

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15分経過の時点で、リング上には

大将格の猪木とマードックだけとなったのであります。


マードックが4の字を仕掛けようとした瞬間

猪木が下から蹴りをぶちこむと

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マードックが吹っ飛びました。

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ここまま転落か…と思ったところに

失格したオートンが背中を壁にして、防御

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実際には反則であったものの

この好…いやっ、珍(?)プレーに場内から拍手が起こります。

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地獄から生還したマードックが息を吹き返し

パイル・ドライバー、カーフ・ブランディングからの

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ブレーン・バスターを狙いますが

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これを空中で体を変えた猪木が、コブラツイストで逆転

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しかし、逆サイドでホールが囮となって

レフェリーの目を盗んだ隙に

エプロンに上がったオートンによって

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場外に投げられた猪木が失格となったのです。

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結果として、外人側のリングアウト勝利

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しかし、この裁定に納得いかない観客が騒然


この時リング下に次週対戦予定の蝶野と橋本(*もう1人のパートナーは藤波)が現れ

猪木を挑発したのです。

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蝶野「オイ、猪木!猪木!よく聞け~!!次の週、待ってろよ。オメエらに腕の1本や2本譲ってやるよ。根性決めてやる。オラ、えー」

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橋本「今度の試合の時、腕1本、足1本くれてやる!最後に首をかっきるのは俺らだ!!覚悟しとけ、コノヤロー」

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これに対し、猪木は

「小癪な、てめえら、ほざきやがって!上がってこい、今。半端なコノヤロー、アメリカ行ったぐらいで俺を倒せるか。上がれー!!」

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こうして、リング上はいつの間にか

猪木と孫弟子・闘魂二銃士の戦い模様へと様変わりしたのでした。

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まさか福井という地方会場で暴動など起こるはずがないとはいえ

観客の不満を逸らすために、蝶野と橋本をすかさず乱入させた辺りは

さすが前年2度も暴動を起こした新日の素早い対応と言えます。


ところで、猪木に対する蝶野と橋本のマイクと言えば

一般的には、この福井ではなく

やっぱり1年2か月後のドームでの

「時は来た!それだけだ」ですね~

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K・ナガサキの自伝では

前田日明との闘いに於いて

「ペイントを施して悪徳マネージャーをつけている俺とシュートスタイルを押し出すUWF勢は水と油のように映ったかもしれないが、やる側としては違和感はない、やっていることは同じプロレスだ。前田日明も試合をしてみて、やりずらいとは全く思わなかった。別に普通に試合をこなしただけのことだ。相手が足を取ってきた時の切り返しは基本として徹底的に学んだから、それが通常のプロレスのレッグロックだろうが、UWF流のサブミッションだろうが、俺の中で区別はない。
 俺が前田から受けた印象は、『普通のプロレスラー』というものだった。少なくとも俺と試合をした時は、こっちの技もしっかり受けていた。キックはどこから来るか、分かったから俺は顔面だけはディフェンスするようにしていた。胸を蹴ってくる分には、いくらでも蹴ってきてもいい。へんに避けることなく、鍛えている胸を出してキックを受けていれば、ケガをすることはない。UWFの代名詞だった関節技にしても同じである。アキレス腱固めも腕絡みも日プロの道場で使われていたから知ってる技だったし、見た事もないような技術を彼らが持っていたわけではない。」

というものでした。


前田日明とK・ナガサキのシングルマッチは

昭和61年11月21日、新潟市体育館

86ジャパンカップ争奪タッグリーグ戦での特別試合として

行われました。


まず前田がドラゴン・スープレックスから

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ニールキック

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そして首4の字固めでナガサキを苦しめると

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ナガサキは弓矢固めで反撃しますが

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すぐに前田は脇固めで切り返します。

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そして顔面へハイキック4連発から膝蹴り

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するとナガサキはトラ―スキックでお返し

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更にパイルドライバーから

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指を掴んでの逆十字固めを狙いますが

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またしても脇固めで返され

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もはや絶体絶命のピンチです。

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「ここがチャンス!」と、前田は河津掛けから

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左右からのキック10連発を魅せ

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とどめはキャプチュードから三角絞め

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「勝負あった」ところでポーゴが乱入し

ギブアップ負けだけは免れたのであります。

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しかし、サクラダさん

結構、派手にやられてましたね・笑


まあ「全部受けてやった」んでしょうけど・笑笑

身長2M、体重160㌔の巨漢、「ニューヨークの摩天楼」B・J・スタッド


新日本プロレスが開催した第1回IWGP世界大会に

アメリカ代表として出場し

ホーガン、猪木、アンドレに次いで

4位の好成績を収めました。


言うなれば、「世界で4番目に強い」男なのです。


IWGP大会ではマスクマンとして参加したスタッドですが

図2


4ヶ月後の闘魂シリーズでの再来日では

素顔を晒して登場し

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10月21日、沖縄県奥武山体育館では

A猪木に対戦を挑みました。

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IWGP公式リーグ戦で

10分以内で猪木に敗れているスタッドは、復讐に燃え

ラリアットで猪木を吹っ飛ばし

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デッドリードライブで、猪木の体をマットに叩きつけます。

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トドメとばかり、全体重をかけたボディ・プレスを狙いますが

しかし寸前で猪木にかわされました。

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そして、トップロープからの急降下ニードロップからの

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「伝家の宝刀」延髄斬りを食らい

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7分30秒、体固めで返り討ちにされたのです。

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アメリカでは、アンドレと抗争を展開したり

ホーガンのライバルであったり

ブロディに一目置かれたりしてたようですが

私的には、「ウス〇ロ」「デ〇の棒」なイメージしかなかったですね。

日プロ時代の「若獅子」A猪木にとって

名勝負の1つと言われているものの中に

1971年8月5日、愛知県体育館で行われたUNヘビー級選手権

<王者>A猪木 対 <挑戦者>J・ブリスコ

の一戦があります。

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60分3本勝負で行われたこの試合(*セコンドはG小鹿)

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1本目はブリスコが21分2秒、体固めで取り

後がない猪木


しかし2本目を7分6秒、原爆固めを鮮やかに決め

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タイに持ち込むと

3本目は勢いのまま1分37秒、コブラツイストでギブアップを奪い

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見事に完勝防衛を果たしたのです。

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結果は知ってましたが

どういう試合内容かはずっと気になっていました。


特にブリスコが取った1本目の技は何だったのか?


バックドロップだったのか?


ダブルアームスープレックスだったのか?


或いは、他の技か?


先日、当試合を見る機会があり、やっと判明…


コブラツイストに行こうと、バックに回った猪木に対し

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ブリスコが受けまいと、後方に体をのけぞった際に

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不意を突かれた猪木がそのまま後方に倒れて

後頭部を打ってしまい

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一瞬脳震盪を起こしたかの如く、カウント3を奪われた!!

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というものでした…


業師の2人ゆえに、展開がスムーズではありましたが

今見ますと

「身体能力が高い猪木がどうしてこれで受け身を取れずに、頭を打つ!?」

とも…


いやっ、あえてここは無理に返さず

インターバルを取って、2本目以降に備えた

と考えるべきか…



そうに違いありません笑

A猪木が提唱したIWGP世界統一抗争を具現化するため

とりあえず新日本プロレスが保持しているベルトは

全て返上という事で

本日よりちょうど42年前の1981年4月23日

蔵前国技館に於いて

A猪木とS・ハンセンによる

最後のNWFヘビー級選手権試合が行われました。


実際はこの前週の鹿児島大会での両者における

選手権試合では、没収試合の裁定で

タイトルのコミッショナー預かりとなっており

正式には「NWFヘビー級王座決定戦」でありますが

どちらが勝っても当日のみの王者となります。

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試合前、猪木はチャンピオン・ベルト

ハンセンはコスチュームをリング中央に置きました。

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試合はやはり白熱したものとなり

10分過ぎ、ハンセンが完璧なラリアットを決めました。

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しかし2発目をかわした猪木は

延髄斬りを決め

さらにトップロープから空中延髄斬り

とどめのフライング・ニー・ドロップでカウント3

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見事、最後の新王者に輝いたのです。

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試合後はハンセンに潔く負けを認め

猪木に手を差し出しました。


ハンセンはそういうことをしない男だと思ってたので

このシーンがすごく嬉しかったです。

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翌シリーズの第4回MSGシリーズでは

そんなことがなかったかの如く

開幕戦からガンガンやってましたけどね(笑)

1981年、新日サマーファイトシリーズ

1週間の特別参加ながら

ついに初来日を果たしたR・ボック


最終戦の8月6日、蔵前国技館に於いて

M・ナドールと欧州コンビを結成しました。

1


迎え撃つ日本人は長州力と藤原喜明組

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当時、長州は「中堅」で藤原は「前座」という位置付けでしたが

今、思うと「このような相手だから、組まされた」とも言えます。


開始前、フェアに握手を交わしました。

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さあ(今振り返っての)注目は、藤原とボックの絡み

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しかし「リング上」では、ボックにかなうはずもなく

豪快な投げを連発で食らい

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タックルで吹っ飛ばされ

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膝、足首を強引に捻じ曲げられ

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対角のコーナーに2度ぶつけられた挙句

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最後は「伝家の宝刀」ダブルアームに沈んだのでした。

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ボックは猪木以外では

木村健、長州(2回)、T戸口、R木村

そしてこの藤原と

シングルで戦い、すべて秒殺してますが

実は5分以上もったのは

当時、一番格下であった藤原だけでした。


この記録を見て、その時は意外だと思ってましたが

今にしたら

あのボックと「5分以上の試合を成立させた」ということで

さすが藤原とも言えますね


ちなみに8月3日~6日まで5試合

毎日、藤原対ボックのタッグ対決が行われています。

1982年3月31日、新日・愛知大会



ローデス、マードックの執拗な攻撃で膝を負傷した猪木は

翌日の第5回MSGシリーズ優勝戦を欠場



その後の経過が心配されたものの、3週間後

つまり本日(2023年4月21日)よりちょうど41年前の

1982年4月21日に蔵前国技館で開催された


難民義援金募金興行には、メインで出場する事となりました。

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今回の対戦相手は


「WWFからの刺客」という事で


初来日を果たしたJ・ベンチュラ

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ド派手な衣装の中身は


素晴らしい肉体美

まさに「ザ・ボディ」であります。

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序盤から怪力ぶりを見せつけ


まだ体調不十分な猪木を苦しめました。

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しかし10分過ぎ、ついに闘魂が点火



弧を描くバックドロップでベンチュラを叩きつけると

すかさずコーナーポストに上るや


ジャンプ一番で、空中での延髄斬りを披露

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更に大胸筋がギュウギュウつまった胸板を破壊するかのごとく

ハイキックを叩き込み、見事な勝利を飾ったのであります。

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安堵の表情でインタビューに応じる猪木

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しかし肝心の膝は

時限爆弾が爆発したかのような状態となり

以後はシリーズを欠場と強行出場の繰り返し


完全復帰に5ヶ月の期間をを要したのでした。



ちなみに、ベンチュラは・・・といいますと

それ以後、日本のリングではパッとしませんでした。



ところが、何と

1990年~95年に、ミネソタ州ブルックリンパークの市長

1998~2002年は、ミネソタ州知事を務め

アメリカの政界では、大活躍をしたのです。



そういう訳で、この時の猪木との対戦は

後の「日本の国会議員」対「アメリカの知事」対決となりましたね。

「KING OF SPORTS」を唱える新日本プロレスに於いて

絶対に実現不可能と言われていた

「究極の師弟対決」が実現しました。


平成9年4月12日、東京ドーム

「INOKI FINAL COUNT DOWN7」として

A猪木 対 タイガーキング(初代タイガーマスク)

の一戦が行われたのです。


永遠の「百獣の王」が強いのか?

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それとも蘇った「黄金の虎」が強いのか?

1


試合前は両手で握手して、深々と頭を下げたタイガー

3


しかし試合が始まるや、全く容赦せず

ローキックと回し蹴りを連発し

更に膝十字固めで猪木を攻めました。

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5

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しかしインディアン・デス・ロックで

自分のペースへと持っていった猪木は

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チョーク・スリーパーから

最後はコブラ・ツイストでギブアップを奪い

6分少々で勝利したのであります。

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9

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負けを認めた(?)タイガーは

試合後は正座で一礼し

永遠の師匠に、敬意を表したのでした。

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色々物議をかもした(?)

猪木のカウントダウンでしたが

ムタ、ゴルドー、そしてタイガーといった

初対決が実現した事については

個人的には嬉しかったですね。

平成元年4月24日の「格闘衛星☆闘強導夢」から2週間経った

5月6日、新日が韓国遠征していたことを

最近知りました。(*当時週刊誌で報道していたのなら、忘れていたのかもしれません)

1

1-2

1-3


そのメインとして行われたのは

A猪木、M斎藤 対 力抜山、金秀供

の一戦であります。


猪木とマサは、10年ぶりのタッグ結成

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韓国チームは共に元新日留学生ということで

本国で猪木と闘えること自体、大変栄誉なことでありましょう。

1-4


地元の大声援を受け、張り切る韓国コンビは

力抜山がマサにラリアット

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猪木にトップロープからフライングニールキック

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さらに金がブレーンバスター、パイルドライバー、バックドロップと

徹底攻撃

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9

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あわや、大金星の3カウント!寸前までいきましたが

起死回生の浴びせ蹴りを受け

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最後は14分5秒、「伝家の宝刀」に屈したのです。

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しかし、数年前まで新日の留学生だった2人

大変栄誉だったことでしょう。

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でも、あれっ、猪木さん

チョチョシビリにやられた(ハズ)の肘は全然大丈夫だったんですね笑

昭和57年春からの内臓疾患(糖尿病?)により

サマーファイトシリーズ第二弾を全休したA猪木ですが

8月26日より開幕したブラディ・ファイトシリーズより完全復帰し

9月19日、後楽園ホールに於いて

S・スローターと3ヶ月ぶりのシングルマッチを行いました。

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「軍人」と呼ばれたスローター

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猪木の膵臓を破壊せんばかりのトーキックから

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得意のストマック・クラッシャー

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更にスローター・キャノン(要するにラリアット)で猪木を叩きつけます。

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しかしドロップキックで猪木が反撃すると

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当シリーズ、スローターと結託しているR木村が

リングサイドまで姿を現しました。

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猪木と木村は二日後に髪切りマッチが予定されています。


木村の姿を見つけた猪木がスローターに背を向けると

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この隙を逃さず、今度は左のスローター・キャノンを浴びせました。

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それをはねのけた猪木は「伝家の宝刀」延髄でスローターを一蹴

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僅か6分15秒の出来事だったのです。

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アメリカでは「鬼軍曹」との異名で(それなりに)一世を風靡したスローターも

日本では、パッとせず…

まあこういう中堅外人選手も必要なんですけどね。

1985年10月18日、後楽園ホール


メインエベントに登場したのは

R・ウォリアーズのアニマル?

それともホーク?


2


いやっ、そうではなく

「南海の野人」K・バーバリアンであります。


3


「A猪木対K・バーバリアン」という

注目の一戦が行われました。


バーバリアン


まずはバーバリアン


「俺が本物だ!」と言わんばかりに

デッドリー・ドライブで、いきなり叩きつけ


5 (2)



パワーを誇示します。


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その後も、ことごとく力で猪木を圧倒し


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更には、ベアアッグ・ドロップで猪木の股間を痛打しました。


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とどめはトップ・ロープに上り

フライング・ヘッドバッドを狙いますが


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これを間一髪かわした猪木


延髄一閃で大逆転し


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辛うじて勝利を治めたのであります。

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こうして、「それなり」にインパクトは残したバーバリアン


その後も何回か来日して暴れっぷりを見せたものの

あまりにキャラが被りすぎたためか

結局、日本では「本物」を超える事は出来なかったのでした。

アメリカでは「本物」と抗争を展開したらしいですけどね

80闘魂シリーズも2週目に突入した昭和55年10月17日

大和車体工業体育館からの生中継におけるメイン・エベントは

A猪木、藤波辰巳 対 T・J・シン、上田馬之助

の一戦です。


試合形式は、当時としては珍しくない

60分3本勝負でした。

1


入場時から客席を暴れまくる凶悪コンビ


当時は観客が本気で逃げ惑ったものでした。

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試合が開始されると、まずは藤波を標的とし

2人がかりで徹底的にいたぶります。

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それでも猪木が救出し

シンに逆水平チョップ

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上田にバックドロップを食らわし形勢逆転

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再び交代した藤波が後方回転エビ固めで

上田から電光石火の1本目を取りました。

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2本目に入り、凶悪コンビの暴挙はエスカレート

翌週、猪木が保持するUWAのベルトへの挑戦が決まっているシンは

狙いを猪木に代え、しかもダメージを与える戦略へと切り替えます。

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結局、反則により日本サイドがストレート勝ちを治めたのです。

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試合終了後は、キーロックで猪木を腕を徹底席に攻めるシン

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ここでジャージ姿の若手が、シンに対し

マジなストンピングを連発しました。

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「誰だ、この身の程知らずな空気の読めない男は?」

と思ったら、何と前田だったんですね笑

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前田は、自分がどうのではなく

単に猪木からシンを離すために必死でシンに蹴りを入れたんでしょう。


当時、若手にはアングル的なものは何も知らされず

猪木への救出も必死だったみたいですね。


前田の本気の蹴りを何発も食らったシンも相当痛かったでしょうに。

1983年7月16日、釧路市厚生年金会館に於いて

D・マードック、A・アドニス 対 A・ブッチャー、B・ブレアー

の一戦が行われました。

1

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当試合はノーテレビながら

2日前(14日)の札幌で行われたマードック対ブッチャー(*7分45秒、ブッチャーの反則勝ち)の

遺恨を引きずっての試合であり

さらに詳しく言えば

7日の大阪でマードック対ブッチャー(8分46秒、無効試合)の2日後(9日)

和歌山でも同タッグが行われ

この時はアドニスが7分31秒でブレアーを片エビ固めで下しています。


本来であれば、マードックとブッチャーの対決が

試合の中心となるところですが

40年後の今となっては、見どころとなるのは

やはりアドニスとブッチャーの絡み


アドニスがブッチャーの額にエルボー・スタンプを放てば

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ブッチャーはトラース・キックからのヘッド・バッドで倍返し

4

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アドニスのモンゴリアン・チョップに

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ブッチャーは地獄突きで対抗

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これだけでも十分「ご馳走様」なのでした。


試合はマードックのブレーン・バスターから

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アドニスがトップロープからのエルボードロップで

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10分55秒、ブレアーを体固めで下したのです。

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当時はIWGP直後のサマー・ファイト・シリーズで猪木が欠場し

藤波を中心とした正規軍と長州を中心とした維新軍の抗争

或いは、タイガーマスクと小林、寺西の連合軍の抗争が

日本中を沸かしていたために

マードックとブッチャーのシングルはテレビで放送されず…

ガッカリしたのを思い出しますね。


しかし、2年前の1981年秋にあれだけ対戦を拒絶した両者が

何故、急にシングルを行ったかは未だに謎ですけどね。

1990年9月30日、横浜アリーナと言えば

A猪木デビュー30周年メモリアルフェスティバルが行われた日ですが

図1

図2


実はG・ムタ 対 R・スティムボードという

超ドリームマッチが行われた日でもあります。

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この試合が国内で4戦目となるムタは

何と天井から吊り下げられて登場

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一方、R・スティムボードは

この日が新日初参加(*多分?)でありました。

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試合は15分過ぎ、ワンハンドバックブリーカーからムーンサルトを狙って

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トップロープに上ったムタに対し

リッキーがドロップキックを背中に放ち

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ムタが急所をやられます。

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悶絶の隙に、リッキーが雪崩式バックドロップ

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そして、逆にトップロープに上りますが

これを待っていたムタが毒霧攻撃

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そして、再度のムーンサルトで

18分58秒、体固めで見事に勝利したのです。

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勝ったG・ムタは

「ヒーロー」と「悪魔」の二重人格


いやっ、今なら二刀流と言えるでしょう。

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一方、負けた「南海の黒豹」R・スティムボードは

母親が日本人の日系二世

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言ってみればこの対決は

「平成プロレス界の大谷翔平」対「昭和プロレス界のヌートバー」であり

まさに「プロレス界の2023WBC対決」なのでした。

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でも当時は、全く馴染まなくて

終始ブーイングでしたけどね。


新日の、それも猪木の記念日のリングに

急にアメリカンを持ち込まれても

それは無理ですって…

昭和57年4月1日から内臓疾患(糖尿病)により

長期欠場(*時々、主要会場で試合をしていましたが…)に追い込まれた

A猪木でしたが

昭和57年8月27日、後楽園ホールに於いて

完全復帰を果たしました。


パートナーはすんごく心強い超人H・ホーガン

no title


対戦相手はS・スローター、E・レスリー組であり

猪木の体調具合を測るには、手頃な相手といえましょう。

1


ホーガンの弟とも噂をされていたレスリー(*実際は幼馴染?)が

両方の肘関節を思いっきり屈曲し

上腕二頭筋を盛り上げ、筋肉パフォーマンを魅せると

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猪木とホーガンは思わず苦笑

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猪木がホーガンに

「ハルク!本物の筋肉を魅せてやってくれ」

とばかり、自分の二頭筋を指さすと

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ホーガンも力こぶを披露し、本物を見せつけました。

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(*まあこの際、この筋肉が〇〇〇〇〇によるかどうかは置いといて…)


さて、試合は外人組がまだ体調万全でないであろう猪木を攻め

レスリーがコーナーやロープを利用して

反則すれすれのファイト見せれば

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スローターが得意のストマック・クラッシャーを決めます。

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大ピンチの猪木でしたが

ホーガンの救出を受け

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最後は放送時間終了間際に延髄斬りを決め

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13分34秒、体固めで見事に勝利したのです。

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とはいえ、顔面も蒼白で

まだまだ試合勘も戻っていない状態でしたが

生中継ギリギリに終わらせる辺りは

さすが千両役者ですね。

1981年、新日プロレスの最終興行となった

12月10日、大阪府立体育会館において

T戸口 対 R・ボックという

プロレスファン注目の一騎打ちが行われました。

2

1


私のの興味はただ1つ


「戸口はボック相手に、果たして何分持つのか!?」

ということです。


詳しく申せば

全日では、当年春にブッチャーやブロディと互角に近い戦いを行ってきたが

6月に新日に移籍し、初戦ではカーンにキン〇マを蹴られて悶絶し

秋にはハンセンやアンドレに秒殺負けし

あの田コロでは、ハンセン対アンドレのド迫力対決の後で

しかもR木村の「コンバンハ」発言の後の猪木戦で

全くインパクトを残せず

暮れのタッグリーグ戦には、キン〇マを蹴ったカーンに

何の仕返しもせず、タッグを組んで(組まされて)出場し

猪木藤波組、ハンセンマードック組、アンドレグレイ組といった

上位チームに勝つこともはおろか

引き分けることもできずに、リーグ戦を終えた戸口が

「欧州最強の男」として2度目の来日を果たしているボック相手に

「果たして何分持つのか?」

という意味であります。


さあ、両者がフェアに握手を交わして

試合が開始されました。

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早々から戸口に対し、ちぎっては投げ

ちぎっては投げのボック

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サイド・スープレックスから

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とどめのダブルアーム・スープレックスで

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3分34秒、何にもできず

ボックの軍門に下ったのでした。

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あ~あ

全日に残っていれば、もしかしたら

天龍と組んで、竜虎コンビ…

いやっ、戸口が大将格の虎龍コンビとして

81世界最強タッグ決定リーグ戦に出場し

優勝はできないまでも、優勝戦線に食い込んだかもしれなかったのに…


戸口と全日に一体何があったんでしょうか(*一応調べましたけどね笑)


試合後は、ボックに健闘を称えられた戸口

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「ユーの本当の実力は知ってるよ。今日は俺を立ててくれてサンキュー!」

とでも思われたんでしょうかね笑

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昭和55年暮れから、「ワールドプロレスリング」にはまった私


特に私の人生を変えさせてくれたのは

1人の日本人レスラーと6人の外人レスラーであり

1人の日本人とは、言うまでもなくA猪木

6人の外人とは、B・バックランド、S・ハンセン、H・ホーガン、A・ジャイアント、D・ローデス、T・J・シンであり

「神セブン」と呼ばせて頂いてます(笑)。


ところで新日は、この時期に

6週間のロングランで、春の祭典として

MSGシリーズを開催しており

この「神セブン」の外人については

昭和53年の第1回大会にアンドレが公式戦参加、バックランドが公式戦以外の特別参加

昭和54年の第2回大会にハンセン、アンドレが公式戦参加

昭和55年の第3回大会にハンセン、アンドレ、ローデスが公式戦参加、ホーガン、バックランドが特別参加しており

「もう半年早くプロレスに目覚めていれば、素晴らしい第3回大会を見れたのに!」

と本当に、今なお悔やんでおります。


まあ、それはともかくとして

昭和56年の第4回大会は

これまでの予選トーナメント、決勝リーグのシステムから

4週間でのリーグ戦に変え

参加外人レスラーも

ハンセン、アンドレ、ホーガンがリーグ戦参加

バックランド、ローデスが特別参加という事で

第3回大会に勝るとも劣らないものになりました。


しかし、大会直前になって

海外でアンドレがカーンとの対戦で足を骨折し

出場不能となってしまったのです。


そこで、アンドレの代打として

急遽シンが参加し

リーグ戦を大いにかき回し

全リーグ戦終了の段階で

ハンセン37点、猪木36点、シン36点となりました。


そういうわけで

6月4日の最終戦の蔵前では

優勝戦進出決定戦として

猪木対シンが行われ

その勝者がハンセンと戦う事になったのです。

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勝負に徹したシンはシビアに攻め

要所要所で首4の字、コブラクローで

ネチネチを猪木を苦しめました。

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大ピンチの猪木ですが

すごい形相で、全く臆することはありません。

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両者リングアウト後の延長戦で

通常のラフファイトに出たシンに対し

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完璧な延髄斬りをヒット


「ボコッ」という鈍い音が

テレビを通じて伝わってきました。

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もう勝てる見込みはないと感じたシンは

最後に本性を現し、急所攻撃で反則負け


これもシンなりの意地だったのかもしれません。

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シンと20分以上に熱戦を繰り広げた猪木は

気を取り直して、ちゃんと髪形を整え

しっかりガウンを着て、決勝のリングに登場しました。

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相手は「今、新日外人で最強」と言っても過言ではないハンセンであります。

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この時点で圧倒的不利なはずなのに

何といきなりウエスタン・ラリアートを食らいダウン

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絶体絶命の中、ハンセンの突進をショルダー・スルーでかわし

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場外戦で、今度はラリアートをしっかりかわし

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そしていち早くリング内に入って

エプロンのハンセンにドロップキックを浴びせ

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リングアウト勝利で優勝したのでした。

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シン、ハンセン相手に計30分闘って撃破した猪木は

本当に最高でした。

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しかし、この大会を盛り上げたのは

急な代役参加にもかかわらず

見事、優勝戦線に残り

しかも猪木と、いわばストロング・スタイルを展開したシンであったと思います。


シンがこのようなシングル祭典シリーズに参加したのは

前シリーズのワールドリーグから数え

8回目にして、初めてであり

逆にすごく新鮮味があった事

そして、結果的にシンにとって

このシリーズを以って、全日に移籍してしまったという事から

骨折したアンドレには、大変気の毒で申し訳ないと思いますが

シンが参加してくれて、私は本当によかったですね。

新日春の祭典・第5回MSGシリーズの優勝戦前夜

昭和57年3月31日、愛知県体育館において

スペシャル・タッグ・、マッチとして

A猪木、藤波辰巳 対 D・ローデス、D・マードックの

一戦が行われました。

19820416


かつては全米を我が物顔のように暴れまくり

そして、国際、全日本にも来日し

日本勢を大いに苦しめたジ・アウトローズ

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昨年暮れより、新日本でもコンビを結成しましたが

ついに新日・ニュー・ゴールデン・コンビと

対戦することになったのであります。


まずは絶妙のコンビネーションで藤波をいたぶりました。

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そして、猪木がリングに入ります。


ちょうど昨年のMSGシリーズでは

日米ドリームタッグを結成していた両者


しかし気づけば、「敵味方」に分かれており

もはや2人の間に友情は存在しないようでした。


この時、両膝にテーピングを巻いていた猪木

かなり状態は良くないようです。

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その足を狙い、ローデスは4の字固めで締め上げました。


猪木は辛うじてロープブレイク

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続いて代わったマードックもレッグロッグで

やはり猪木の足を攻めます。

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もはやアウトローズのワンサイドでしたが

レフェリーの制止も聞かず、暴走したため

猪木側の反則勝ちとなったであります。

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この試合で膝が悪化した(と言われてる)猪木は

翌日のアンドレとの決勝戦を辞退し

代打として、K・カーンが出場

これが歴史上に残る好勝負となりました。


しかし私にしたら

アンドレ対カーンよりもはるかにこの試合の方が

インパクトは大なのです。


ローデスが好きで

猪木、ローデス組でのMSGタッグ出場を期待していた私にしたら

このローデスの猪木いたぶりは何とも言えないショックでありましたが

どうせなら

「昨日の友は今日の敵」といった「裏切り」的人間模様を押し出してくれば

もっと盛り上がったのではないかと

今は思いますね

猪木とシンの究極の抗争と言いますと…

やはり真っ先に「腕折り事件(*医学的に適切かどうかはともかくとして)」が思い浮かびますが

その6日前となる1974年6月20日、蔵前国技館に於いて

NWF世界ヘビー級選手権、60分3本勝負

<王者>A猪木 対 <挑戦者>T・J・シン

の一戦が行われました。


シンにしたら、初のNWFタイトル挑戦であります。

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一方、迎え撃つ猪木

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試合はいきなりシンが、隠し持っていた凶器を使って

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猪木の喉元を攻め

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さらに場外乱闘からクロー攻撃で優位に立ちますが

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ナックルパートで形勢逆転した猪木は

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バックドロップからブレーンバスター

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そして、完璧な卍固めで見事に一本目を先取したのでした。

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2本目に入っても

コーナーにうずくまったまま、シンは戦意喪失状態であります。

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このまま試合放棄と思われた時

猪木も油断した瞬間

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なんとシンが火の玉を猪木に投げつけたのでした。

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この暴挙に猪木は後方に倒れます。

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セコンド陣が心配そうに駆け寄りますが

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猪木は左目にダメージを負った模様でした。

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こうして、両者の遺恨はさらにエスカレートし

6日後、大阪府立体育館にて

再度、タイトルマッチが行われたのであります。


当時は家庭にビデオがない時代


プロレスファンにとっては、毎週毎週

たまらない展開だったことでしょうね。

昭和62年夏に開戦された世代闘争

戦国合戦シリーズ2週目の9月14日、岡山武道館において

A猪木、武藤敬司、高田延彦 対 藤波辰巳、S・S・マシン、小林邦昭

という

ハッキリ言って、「よく分からない」6人タッグマッチが行われました。


まあそれでも、8年後を思うと

猪木、武藤、高田のトリオは感慨深いものがあります。

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試合前は猪木が藤波を逆挑発しながら

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いざゴングが鳴ると、自分は高見の見物で

武藤と高田に藤波への集中攻撃をやらせました。


まずは武藤のドロップキックで試合が開始

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その後は高田のバックドロップ、ツームストンパイルドライバー

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武藤のドリルア・ホール・パイルドライバー

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2人でツープラトン・パイルドライバー

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と藤波の頭部を徹底攻撃します。


藤波にダメージが蓄積したところで

猪木が登場しました…が

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張り手一発仕掛けただけで、深追いはせず

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試合の方も高田が小林をエビ固めでクイックフォール勝ち

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全く見どころのないままに終わってしまったのです。

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どうせなら、この前日に行われた

猪木、藤原 対 長州、前田という

「最高の世代闘争タッグマッチをどうして放送しなかったのか!?」

本当に理解に苦しみました。


まあ敢えて当試合の注目点と言えば

猪木と小林邦昭の(テレビマッチでの)最初で最後の絡みが実現した

といったとこでしょうか。


小林のドロップキック

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猪木のボディスラム

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と一瞬で終わっちゃいましたけどね。


あっ、失礼しました。

この2人は3ヶ月前の6月9日大阪で

タッグマッチでテレビマッチで闘ってました~。


ただし小林は素顔ではなく、覆面かぶってましたけど笑

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